毎日、僕が関わっている子どもたち。
両親・片親が死に施設で暮らすエイズの子どもたち。
彼らの命は短い。しかし、施設で彼らには三食の食事が
用意され、学校に通い勉強することもできる。
そして毎日、僕が通りすがる子どもたち。
毎日道路の傍らに立つ貧しい子どもたち。信号待ちをする
車の窓を叩き、お金を求める。車に引かれた傷跡が生々しい
子もいる。そして彼らは学校にいくこともできない。
不衛生なスラムで暮らす日々。ただ彼らには親がいる。
そして命が短いわけではない。
毎朝、そんな彼らからお金を求められ、その切な要求を拒み、
HIVに子どもの施設に行く。
「どちらの子どもたちのために力を尽くすべきなのか?」
毎朝問われる。残念だけど、今の僕に両方とも
まとめて手助けなんてできない。力不足の実情。
ちょっと考えてみたこと。
ストリートチルドレンを手助けする意味。学校や
フリースクールで彼らが知識を得れば、彼らが職に
付けるチャンスが増える。そうすれば、物乞いの子が
物乞いとしていきる悲しき連鎖は止まる。また知識に
よってHIVのことも知り、感染の予防にもつながる。
エイズ孤児を手助ける意味。限られた短いものだからこそ、
それを濃いものにして欲しい。親がいないという辛さ、そして
自分に全く責任がないのにも関わらず背負わされたエイズという
悲しさを少しでも忘れて欲しい。だから彼らの傍に立つことは大切。
ガンディーの言葉 |
そしてどんなに考えてみても、一か0かの答えはでるもの
じゃない。客観的に考え選択肢を用意できても、どれが
絶対的に正しいなんて言えない。
最後に求められるのは客観的な1か0の答えじゃない。
自分の直感によって決めた1でもなく0でもない脆い答えを、
自分の決断を信じることで、すぐには崩れない強固な答えに
すること。自分の選択を納得する力が求められるんだと思う。
問われるということは、正しさを求めることじゃなくて
何かを決めること。
最近そんなこと感じています。以上
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