2010/12/25

問われること。決めること。


毎日、僕が関わっている子どもたち。

両親・片親が死に施設で暮らすエイズの子どもたち。
彼らの命は短い。しかし、施設で彼らには三食の食事が
用意され、学校に通い勉強することもできる。

そして毎日、僕が通りすがる子どもたち。

毎日道路の傍らに立つ貧しい子どもたち。信号待ちをする
車の窓を叩き、お金を求める。車に引かれた傷跡が生々しい
子もいる。そして彼らは学校にいくこともできない。
不衛生なスラムで暮らす日々。ただ彼らには親がいる。
そして命が短いわけではない。

毎朝、そんな彼らからお金を求められ、その切な要求を拒み、
HIVに子どもの施設に行く。

「どちらの子どもたちのために力を尽くすべきなのか?」

毎朝問われる。残念だけど、今の僕に両方とも
まとめて手助けなんてできない。力不足の実情。

ちょっと考えてみたこと。

ストリートチルドレンを手助けする意味。学校や
フリースクールで彼らが知識を得れば、彼らが職に
付けるチャンスが増える。そうすれば、物乞いの子が
物乞いとしていきる悲しき連鎖は止まる。また知識に
よってHIVのことも知り、感染の予防にもつながる。

エイズ孤児を手助ける意味。限られた短いものだからこそ、
それを濃いものにして欲しい。親がいないという辛さ、そして
自分に全く責任がないのにも関わらず背負わされたエイズという
悲しさを少しでも忘れて欲しい。だから彼らの傍に立つことは大切。

ガンディーの言葉
ただこの二つの選択肢を客観的な秤では計れない。

そしてどんなに考えてみても、一か0かの答えはでるもの
じゃない。客観的に考え選択肢を用意できても、どれが
絶対的に正しいなんて言えない。

最後に求められるのは客観的な1か0の答えじゃない。
自分の直感によって決めた1でもなく0でもない脆い答えを、
自分の決断を信じることで、すぐには崩れない強固な答えに
すること。自分の選択を納得する力が求められるんだと思う。

問われるということは、正しさを求めることじゃなくて
何かを決めること。

最近そんなこと感じています。以上

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