2010/12/27

ガンディーさんならどうしたのかな。


夜道を歩いていると、突然背後からバイクに乗った三人組の
男にラリアットを喰らわされた。後頭部直撃。そしてこちらを
激しく睨みつけたまま彼らは走り去り、闇へと消えていった。

いやいや、そっちが睨みつけてくるタイミングじゃないだろ。
被害者はこっちなんですけで・・・( ゚Д゚)ハァ? 

軽く脳振とうを起こし朦朧とする中で、僕はそう思った。

一瞬、はげしく憎たらしかったが、どうすることもできない。
何より彼らを憎んでも何も生まれない。

尊敬するガンディーさんならどう考えるだろうか。

僕が氏を尊敬するようになったのは、彼の自叙伝の中で
以下の下りを読んで感銘を受けてからのこと。
(記憶が曖昧なので正確ではないかもしれません)

ロンドン大学を出て弁護士となったガンディー。若かりし彼が
南アフリカに渡った当時、そこでは黒人だけでなく有色人種も
差別の対象になっていた。ある日正規のチケットを持ち、列車の
一等車両に乗っていた彼を、新米の警官が下等車両に移そうとした。
しかし彼はその要求を拒み、叩き降ろされる。


後日、そのことを聞きつけた警察署長は差別撤廃運動ですでに
影響力を持ちつつあったガンディーのことを知っていた。そして、
新米警官を処罰することを彼に申し出た。するとガンディーは答えた。


彼一人を処罰して何になるのか、彼は正しいと思うことをしたまで。
この国の社会自体が変わらねば、何一つ問題は解決しない。

この流れ...叩き降ろされるという辱めを受けても、それをした
加害者自身を憎むのではなく、彼をそうさせた社会を変えようとする。
なんという深い見識、それ以上になんて強い魂を持った人間なんだ。
僕はそう思い感動した。

きっとそんなガンディー爺さんなら、ラリアットの男たちを
憎まず、そのような行動に駆り立てたインドの社会のあり方を
問題として見つめるんだと思う。

たぶん日本人なら学校やメディアなどで、外国人のことを少しは
知っている。ただこの国で、学校も行けなかった人、読み書きが
できず新聞を読めない人、テレビを買うお金がない人なんかは
外国人のことなんてほぼも知らないんじゃないか。

そんな異質なものが目の前に急に現れたら、そりゃビビるだろう。

きっと彼らが夜中に僕を襲ったものも、彼らを無知によって
狭い世界観に閉じ込めた社会的原因があるのだと思う。

木に触れ、まず森を見る。

今回は幸いにもインドというガンディーの生まれ故郷で
氏の思想を、自分の経験に当てはめて考える希有な機会を得た。

ラリアットの男たちとの出会いに感謝。以上

2010/12/25

問われること。決めること。


毎日、僕が関わっている子どもたち。

両親・片親が死に施設で暮らすエイズの子どもたち。
彼らの命は短い。しかし、施設で彼らには三食の食事が
用意され、学校に通い勉強することもできる。

そして毎日、僕が通りすがる子どもたち。

毎日道路の傍らに立つ貧しい子どもたち。信号待ちをする
車の窓を叩き、お金を求める。車に引かれた傷跡が生々しい
子もいる。そして彼らは学校にいくこともできない。
不衛生なスラムで暮らす日々。ただ彼らには親がいる。
そして命が短いわけではない。

毎朝、そんな彼らからお金を求められ、その切な要求を拒み、
HIVに子どもの施設に行く。

「どちらの子どもたちのために力を尽くすべきなのか?」

毎朝問われる。残念だけど、今の僕に両方とも
まとめて手助けなんてできない。力不足の実情。

ちょっと考えてみたこと。

ストリートチルドレンを手助けする意味。学校や
フリースクールで彼らが知識を得れば、彼らが職に
付けるチャンスが増える。そうすれば、物乞いの子が
物乞いとしていきる悲しき連鎖は止まる。また知識に
よってHIVのことも知り、感染の予防にもつながる。

エイズ孤児を手助ける意味。限られた短いものだからこそ、
それを濃いものにして欲しい。親がいないという辛さ、そして
自分に全く責任がないのにも関わらず背負わされたエイズという
悲しさを少しでも忘れて欲しい。だから彼らの傍に立つことは大切。

ガンディーの言葉
ただこの二つの選択肢を客観的な秤では計れない。

そしてどんなに考えてみても、一か0かの答えはでるもの
じゃない。客観的に考え選択肢を用意できても、どれが
絶対的に正しいなんて言えない。

最後に求められるのは客観的な1か0の答えじゃない。
自分の直感によって決めた1でもなく0でもない脆い答えを、
自分の決断を信じることで、すぐには崩れない強固な答えに
すること。自分の選択を納得する力が求められるんだと思う。

問われるということは、正しさを求めることじゃなくて
何かを決めること。

最近そんなこと感じています。以上

素敵なクリスマスプレゼント

まずは昔話。

事情があって地区の中学校ではなく、離れた場所にある
別のに小中一貫の学校に僕は入学した。

良家の子どもたち、すでに出来上がった友情関係、
その環境に馴染めずに僕は入学早々孤立してしまう。
そしていじめにあった。

やはりいじめは悲しいもの。学校では泣かなくても、
人がいない帰り道で一人涙したこともあった。
ただ誰にも相談しなかった。

よくいじめの問題で教師や親がそのことを把握してない
ということがある。しかし、それは彼らの責任だけでなく、
子どもが恥ずかしくて外にだそうとしない頑な姿勢が
大きな原因だと僕は思う。

エロ―ラの石窟
そこで一人悩んだ自分は何故か本屋に向かった。
社会人が向けの人間関係上達法みたいな本を数冊買い、
読みふけた。今思えば謎なプロセス。

そして、本で書かれていることを実践すると不思議と
孤立することがなくなり、いつしかいじめはなくなった。

ただその時以来、「自分は本に頼らなければいないほど、
対人関係の力がないんだ」と強く思うようになった。
劣等感という後遺症。

その悩みを克服すべく、色々なことにチャレンジした。
例えば、何度も1000人以上の前で話す機会を得るために
高校時代は生徒会の副会長になった。知らない人と話す力を
得るために、東京から九州までヒッチハイクをした。

それでもなかなか後遺症は払拭できなかった。

ただ旅に出てから、ようやく違う見方ができるように
なってきている。

多くの土地でたくさんの人に出会い、しゃべり、仲良くなった。

そして昨日のクリスマスイブ。偶然スペインの子から彼らの
パーティーに誘われた。見知らぬ欧米人十数名とのディナー。
行く前はびびった。しかしいざ終わってみると、レストランで
ワイン片手に楽しく談笑し、深夜までクラブで盛り上がった。
クリスマスパーティー
「やればできるじゃん。少しは前進したのかも」

この先、後遺症が完全になくなることはないのかもしれない。
ただ人見知りだけど、最低限必要な人と仲良くなれる力は
備えてるから大丈夫。そう思えるようになってきた。
長らく苦しんできた悩みが消えて安心を得ようとしている。
これも全て色々な人との出会い、そして経験のおかげ。

ほんと感謝やわ。

2010/12/20

十人に一人。習慣化の壁

「毎日、計画・実行・反省を欠かさなかった」

この言葉は『流学日記』の著者である岩本悠さんに、
なぜ彼のような濃い旅ができたのか尋ねた時に
返ってきた答え。 

『流学日記』。旅に出る勇気を与えてくれた本。
もし寮の先輩がこの本を紹介してくれていなければ、
大学を離れてまで旅に出ることはなかったかもしれない。
それぐらい自分にとって衝撃的だった本。その本を書いた
憧れの人物から直接教えてもらった旅の秘訣。

その時は「絶対自分も実行するぞ!」と思った。
もちろん岩本悠さんにも「実行します!」と伝えた。

しかし旅に出て数カ月経った今現在。
未だ継続する習慣として定着せず。残念な状況…

どこでだか、こんな話を聞いたことがある。

「通常、講演会やセミナーなどに参加した人の内、
そこで聞いたことを一回でも実践する人は4分の1以下。
さらにそれを習慣として継続する人は二桁に満たない」

つまり90%以上の人にとって、そこで得たものは
単なる情報。そこで止めてしまっていることになる。
情報は利用しなければ、無駄なものにすぎない。

服や物は買えば直ぐに身に付けることができる。
買うまでの努力はいるが、身に付けるのに労を要さない。

しかし、継続する習慣の場合はそうはいかない。本人次第。
ここが難しいところ。どんなに高いセミナーに参加しても、
参加した人自身の気持ちと努力がなければ絶対身に付かない。

習慣化の壁。心移りし易い自分には、この壁は高いもの。
これまで多くのことを習慣させてこなかった悲しい過去。

ただ、ようやく変化の兆しが見えてきたかもしれない。
今の滞在先ジャイプールに来てからのこと。一か所に
留まり落ち着いたおかげで、今までよりも頻繁に
「計画・実行・反省」の時間をとり始めている。

継続する習慣は一日にして成らず。
飽きずにこつこつ実践していくしかない。

2010/12/18

噛みつき攻撃~その2~

たくさんの薬

前回の続き。

『インドではHIV陽性の子どもを受け入れない学校がある』

僕がここに来る前、このことを知ったときは、なんて冷酷な社会
なんだと思った。


ただ、インドの子どもと触れ合った今は必ずしもそう割り切れ
ないんだと思うようになった。HIVウイルスを持たない子どもの
親の立場からした、上のやり方を支持するのは、
自然なことかもしれない。

インドの大人たちはインドの子どもたちがどれだけわんぱくかを
十分に知っている。だからこそ、血液の直接接触による感染を
恐れるのではないだろうか。

学校に受け入れないことは無知による差別ですむ問題じゃない。

しかし、そのことが、今のインドではサポート不足でHIV陽性の
子たちの教育機会のはく奪につながることもまた現実。

どちらが正しいという問題じゃない。難しい。

2010/12/17

噛みつき攻撃~その1~

インドの子育ては荒々しい気がする。

ここにいる大人たちは言葉で注意よりも先に、ほっぺを叩く。
考えさせる前に、まず痛みで教え込むのだろう。

目の前でかわいい子どもたちが、「えっ!このタイミングで…」と、
叩かれるのを何度も見た。ただ彼らは泣かない。慣れていた。

しかしその影響か子ども同士でも、手を出すことが多い。
すぐに、叩き、蹴り合う。さらには噛みつくも。

もちろん、時には僕にも迫ってくる。彼らにとって普通なのだろう。

もし彼らが普通の子どもだったら、きっとわんぱくなインドの子ども
として話しはすむ…
叩きあう子ども

しかし、僕が触れ合っている彼らはエイズの子どもたち。
ただのわんぱくなケンカやじゃれあいですまない場合がある。
他の人を感染させてしまう可能性。血液の直接接触。

例えば噛みつき攻撃。口に切り傷がある陽性の
子どもが他の子を出血させるまで噛んだとしたら。

幼い彼らはいまいちエイズの特性をわかっていない気がする。
そもそも6歳ぐらいの子どもなんかには難しすぎるのかもしれない。
また仮に無理やり「お前はエイズだから、他の子どもとは違うんだ」
と教え込むのは、彼らのの自尊心を大き傷つける可能性もある。

それに理性で自分を抑えるのが難しい子どもたち。
結局、何をしでかすかわからない。

どうやって、彼らを他の子に感染させないよう、上手く教えて
あげれられるのだろうか。悩む。

2010/12/16

井の頭公園~その2~

前回の続き

スラムの薄暗い小さな小屋。素敵な話しはここまで。
インド産ミッキーマウス?
子どもたちをそそくさと帰らせた彼ら。そして彼らは表情を変え、
迫ってきた。

「僕たちの活動に共感しただろ。で、君は何ルピーを
置いてってくれるの。5000ルピーぐらいかな?」

不意打ち。急に高額な資金援助を求められるなんて
思ってもみなかった。動揺するも丁重にお断り。

「お金がいやなら、何か買っくれ。今から買いに行こう!」

すかさず違う角度からの要求。高額なものを
買わされそうな予感。丁重にお断り。

「それじゃ団体のためじゃなくていい。僕の絨毯屋で
商品を買ってくれ。日本で売れば、君はぼろ儲けだ。」

えっ・・・何が何なのかわからなくなる。ただ間違いなく自分に
絨毯はいらなかったし、日本で絨毯を売る気にもならなかった。
丁重にお断り。

「それなら僕たちに食事をご馳走するってのはどうだ?
チキンが食べたい。チキンの丸焼きだ!良いレストランを知っている。
一緒に行こう!」

チキンの丸焼...子どもみたいに駄々を捏ねだす彼ら。
ただ彼ら全員に食事を振舞う理由を微塵も感じない。
はっきりとお断り。

「チキンが嫌って、ベジタリアンか?じゃあ、僕たちはチキンを
食べるから、君は野菜を食べればばいい。そうだろ?早く行こう!
今夜はご馳走だ。」

彼らからの最後の要求だった。
青色のチョコレートケーキ。600ルピー
呆れてしまい返す言葉がなかった。

小さな小屋で繰り広げられた数人のインド人と一人の日本人との
やり取り。彼らの凄む様子は軽く恐喝だった。

目的のためには手段を選ばぬ。

力強く生きるインドの人々の様子を垣間見ることができた。
偶然の経験に感謝。

2010/12/15

井の頭公園~その1~

インドで一番宝石が安く買える街ジャイプールに着いた日の晩。

ジャイプールの街並
リキシャの運転手に声をかけられ、少し話しをすることに。
すると、彼は友人と共にスラムの子どもに教育支援活動を
行っているとのこと。

さらに、活動現場を見せたいという。警戒しつつも、
とりあえずついていってみた。

彼に連れていかれた町はずれのスラム。そこで迎えてくれたのは、
彼の教え子たち。身なりは貧しくとも、子どもたちが見せてくれた
笑顔や初対面の人間に接する態度は本当に素晴らしいもの。
リキシャの運転手と彼の友人が行っている教育活動が、子どもに
良い影響を与えていることの察しがついた。

まずは運転手の紹介でその活動団体のまとめ役と会い、
熱すぎて胡散臭さを覚える人生論を長々と聞かされた。

次に音楽のクラスを見学。教えている別の男性はプロの
伝統楽器奏者。日本やヨーロッパの国々に招かれ演奏した
経験の持ち主。そして、春に訪れた日本の写真を見せてくれた。

なんと大学近く吉祥寺、井の頭公園の写真!

こんなインドの片隅で、なじみ深い場所を見るとは。
ふいに日本が恋しくなった。
郊外

そして子どもたちの歌と太鼓演奏がかなり本格的で驚いた。

スラムという厳しい環境の中でも、教育次第でこんなにも
子どもたちの感性は磨かれるんだ。

そう思い、胸が高まった。

2010/12/12

FIGHT!!WHY NOT!?

日本の大手広告会社の人と話す機会に恵まれた。

益々増えるであろうインドへの案件。まずは自分の目で
実際の様子を知ることが大切だと考え、休暇をとってインドに
来たそうです。北の首都デリーから南のIT都市バンガロールまで
ガイドを雇い見て回るとのこと。積極的な現場指向。

そんな彼と一緒に行った映画館でのこと。
インドでも有名な映画館
僕たちはロビーで上映開始まで待つことに。彼が席をはずした隙に、
彼の座っていたソファーに現地人が座りました。

「ま、他の椅子を移動させれば大丈夫。」

みたいに考え、特に気にも留めず眺めていた自分。
すると用を済まし戻ってきた彼はその様子を見て一括!
「お前なんで、ちゃんと「知りあいの席だ」って言わないんだ!
ちゃんと闘わないから、日本人は外国で嘗められるだ!」

自己主張。思い返せば、インドに来てからよく隅にいます。
どんどん我が先と向かってくるインドの人混みの中、
いつの間にか乗り物の端にいることや列の順を
抜かされることなどが度々ありました。

小さなことも積み重ね。きっと合計すると疲労であったり、
無駄な時間のロスを生むことに。勝負を避けることは
自分にとって負の影響をもたらすことになる。
そして自分の利益を逃すことにもなる。
そのことに気づきはっとさせられました。
タイの僻地でみたウルトラマン
彼の日本人離れした値段交渉でのアグレッシブさ。
暗い場所では嘗められないために「歯は見せるな!」
という徹底した態度。今の自分に欠けている勝負師の勘。

自己主張国家インドにいるのはいいチャンス。
少しずつ勝負していきます!

サッカーで全国制覇をしたこともある彼からは、
闘う姿勢を学べた。出会いに感謝。

2010/12/11

Hey, China!

ファンキーな看板

どうやら中部から北インドの人々にとって、僕の容姿は
彼らの持つ中国人のイメージに合致するらしい。
多くの人々が、Hey, China!と声をかけ、彼らの言葉で罵しり、
そして時には水を掛けたりもしてくる。

明らかに好意的ではない態度、剥き出しの軽蔑。
けして彼らは一人ではそのような行動を起こさない。
集団のうち、誰か一人が声を出し、
そして周囲も笑いだすというお決まりのパターン。

そうすることによって、彼らの何が満たされるのかは
わからない。中印国境紛争で味わった屈辱、
中国から押し寄せてくる価格破壊の商品による脅威。
一体、何が彼らを駆り立てるのだろうか。
傷つきはしないまでも、不快感をその度に覚える。

異なるものをどう受け止めるのか、このことはヒトの
大きな課題だと思う。きっと上の現象もインド人特有の
ものではないと思う。いじめや外国からの移住者に
対する人々の眼差しといった違う形で日本でも顕われて
いるんじゃないだろうか。

この異質なものへの負の反応は、ヒトの自然な心理作用として
受け入れなければならないのだろうか、それとも
適切な教育などで乗り越えることのできる問題なのだろうか。
不可触民という考え撤廃しようとしたガンディー
もう少しじっくり考えてみることにします・・・

2010/12/08

20倍の謎

旅をしていると、気づかされるのが国ごとに違う観光政策。
国々によって、外国人を旅行者を受け入れる態勢が大きく違います。
その点、スリランカは不思議な観光政策をとっていました。
ムーンストーン
僕が訪れた国が管理するほとんどの観光名所で、外国人料金は
現地人の”20”倍に設定されていたんです。例えば、

動物園だとスリランカ人70円、外国人1400円。
滝、スリランカ人10円、外国人200円。

さらに文化遺産を巡るチケットセットが外国人向けに
5000円で販売されているのに対し、スリランカ人は
その遺産の多くに無料又は格安で入場できます。

いくら物価の安いスリランカとはいえ、観光地で現地人の
20倍の料金を毎回支払っていくのは、不愉快だし、
何より資金的に厳しい。この値段設定は、先進国から来た
\資金に余裕がある人々ならともかく、物価の安い国々の
人々がスリランカを観光のために訪れる機会を奪うはず。

非公式なラピュタのモデル「ヤッパフーア」
スリランカはコンパクトな土地の中に素晴らしい自然と
文化遺産を持った魅力的な国。タイのように多くの国々から
多くの観光客を呼べる要素があるのに、自らの政策でそれを
台無しにしている。

スリランカを旅しているとそんな気がしてなりませんでした。

2010/12/07

WHAT IS “THANK YOU”? 

スリランカでは、年上もしくは同世代であってもお金を
持っている人間が奢ることが普通になっています。
ただ日本と違うのは、この国では奢られた方がお礼と言わないこと!
仏塔だらけの国
その文化に初めて出会ったのは、スリランカの学生と
行ったレストラン。お勘定の際、店員がレシートを持ってくると、
それを読み上げ、「数百ルピー!」とだけ言い、
おまえが支払うんだという目配せ。色々な場所を
教えてくれた恩もあるしと割り切り、彼に言われた料金を
支払いました。しかし、彼からはThank youなど
という言葉はありませんでした。衝撃的でした。

後に何度も出会うこの状況。友人に訪ねてみても、
「スリランカじゃ普通だよ」みたいな、気にも留めない反応。

そして、このことで一番思い出深いこと。何故か友人との
小旅行についてきた二人の大学一年生。
そして何故か片方は外国人は嫌いみたいな態度を
とり続けていました。けれども、ホテルへのチェックインや
食事の時にはさも当然のように、友人と僕が勘定を済ませるのを
退屈そうに待っています。彼らの態度に不快感を覚えていた僕は、
友人に

「あんなやつらの分を払いたくない!」と

はっきりと意思を表しました。しかし、「この国の文化なんだ」
という友人。さすがに彼に全ての支払いをさせるのはまずい。
とりあえずお金は出しました。

カルチャーショック!トイレにティッシュペーパーがないことや、
手でご飯を食べるとか、ベッドにダニがいるとかは、大した
抵抗もなく耐えられたのに、意外なとこで不快感を覚えました。

お礼を言うこと。挨拶は当然だと思っていましたが、
そうではない人々もいるんですね。
自分が当然だと思っていることの例外を認める柔軟さが、
生きる上では必要なようです。日々学び
四十九日のような集まり

2010/12/06

毒林檎

自身の信条として人から善意でいただいた食べ物は、
何であっても残さず笑顔でいただくということがはあります。
(インドで流行っている睡眠薬入りのクッキーなどは除く)。
もし食文化が違うからといって、人がおいしいと信じて
与えてくれたものをまずいと言って拒むのは、
失礼だと僕は思うんです。
料理
さておき今回の話に入ります。スリランカはフルーツの宝庫。
僕たちになじみ深いものから、日本ではお目にかかれない
ような奇抜なものまで様々。例えばバナナ一つとってみても、
レッドバナナ、シュガーバナナをはじめ、多くの種類が
あったりもします。

ただ、いくつかのフルーツは全くと言っていいほど口に
合いませんでした。これまで、何でもおいしいと
感じられることが自分の一番の長所だと感じていた
僕にとって、このことは衝撃的でした。
本当においしくなかった。

しかし、ここはスリランカ。仏教の影響もあり、
食べ物をご馳走するのが大好きな人々。
僕が好きかどうかもお構いなし。どんどんと
おしくないフルーツを庭からもいできてくれました。
緑色の渋すぎるグァバ、アリがたかった凸凹の木の実、
そしてリンゴとは全く違うウッドアップル。
逃げられるときは「お腹いっぱい」という口実で
逃げましたが、それが通用しない時は、
「ありがとう」と言って食べました。

そして、ある日のこと。少年が半分に割ったウッドアップルの
片割れをくれました。ただでさえ梅干しのみたいな味がして
美味しくないこのフルーツ。彼がくれた実のまずさは
半端ありませんでした。無邪気そうな笑顔で「どうどう?」と
聞いてくる彼。「おいしいよ。ありがとう。」と答え、
覚悟を決め食べ続けました。

しかし、残った片割れを一口かじった少年は言いました。
「これ腐ってるし!」と。そして、その実を投げ捨てました。
そして彼は、「何できづかないんだよ」みたいなことを言って、
僕の持っていた実も投げ捨てました…
唯々、僕は笑うしかありませんでした。

ただ苦い経験もありますが、食べ物への僕の信条は
間違ってないと思います。スリランカでおしくないフルーツや、
さらには茶色く濁った水を拒まずにいただき続けたことは
滞在先の人々との距離を縮めることになったのは事実。
やはり一緒の食べ物を共に食すということは、
一つの重要な行為なようです。

そして、このスリランカでの経験によって、とりあえず
僕はどこにいっても食べ物には困らないんじゃないか、
そんな自信を覚えました。

この記事を書いている今は毎日おいしいインド料理を
食べ幸せを感じています。

2010/12/05

わかちあい

11月上旬の2週間。「いつか行く!」という友人との約束を
果たすためだけに訪れたスリランカ。

終わってみると期待していた以上に、素敵な国だった。
何よりも素晴らしかったのが、人々の温かさ。


友人の家族をはじめ、計4つの家族が笑顔と甘いミルクティーで
僕をもてなしてくれ、泊めてくれた。他での出会いにも恵まれ、
バスでの移動中も退屈はしなかった。

自分も感じたし、現地で会った青年海外協力隊の人も語っていたけど、
スリランカは昔の日本ようだった。人々の容姿も街並みも違うけど、
不思議とスリランカにいると、佐賀と瀬戸内海の島にあった祖父母の
家を訪れた時の懐かしさを感じた。

共有の文化がこの国には今でも強く根付いている。
調味料やフルーツ、野菜などが足りなくなったら、
お隣を訪ねていく。どこか遠出したらお土産を買い、
ご近所におすそ分けをする。わかちあいを大切にしていた。
お寺の日曜学校
日曜学校の子どもたちの遠足に飛び入り参加した際のこと。
友人から全員分のお菓子を買うようにと言われていた。
とりあえず大きな袋に入った大量のクッキーを持って行くことに。
外国人だからそうしないといけないのかと考えていた僕は驚いた。
バスが出発するなり、前から後ろから、子どもたちも大人たちも
自分が持ってきた食べ物を配って回りはじめた。誰しもが、
自分一人で食べるのではなく、わかちあうことになっていた。

スリランカは今僕がいるインドに比べたら物もないし、
インフラも豊かではないけど、わかちあいという文化を
基盤とした人々のつながりという大きな財産が
この国はある気がした。感動。

ただ友人によると、コロンボなどの都市部ではその文化も
崩れ始めているそうだ。残念ながら、この国でも経済の
発展による都市化と人々のつながりは反比例するようだ。複雑。

2010/12/04

“窃盗”先生

10月の後半。マレーシアのペナン島ジョージタウン。

綺麗なモスク
この街へ来て2日目の晩、リトルインディアを歩いていた。
この島の雰囲気に気持ちが揚々とする自分。
世界遺産ジョージタウンの古い街並みの美しさ。
中国・インド・イスラムという異なる文化が
小さな街に混在するおもしろさ。安くておいしい料理。
この街は僕を魅了する要素を存分に含んでいた。

すると突然、カップルが僕に話しかけてきた。
彼らはサウジアラビア人だと名乗り、近日中に・・・・・

今、振り返ると明らかに馬鹿げた話なので省きます。

結果的に僕は「お前ら怪しすぎる」と言い残し、
彼らから離れた。しかし、すでに時遅し、僕の財布からは
日本円で6000円ほどのマレーシア通貨がなくなっていた。
警察に行ってみても、「それはお前の不注意だ、
どうしようもない」と冷たくあしらわれるだけ。

素直に反省。意気揚々とするあまり、隙をつくり
すぎていたからこそ、彼らのような人間を引き寄せて
しまったのだろう。油断大敵。

今はただ彼らが僕のお金を有効活用してくれたことを
願うしかない。
首都にある元世界一高いペドロタワー

2010/12/03

頭をはたかれて気づいたこと

3週目。前週と同じく習熟コース。今回はクラスメートとして
一人のドイツ人女性。普段はスポーツインストラクター
をしているとのこと。

それまでの二週間を終え、僕の中で課題として感じていたのが
集中力。タイマッサージを全身に施すとなると、一時間半は
かかります。その過程で最後まで集中力を保つことができず、
僕は途中で意識が朦朧としたりもしていました。
大きな課題だと気づいてはいました。

そして、その課題は事件を引き起こしたのです。
巨大な寝仏
ドイツ人女性が来た一日目。僕は彼女にマッサージを
することに。その時にはすでに今までの成果もあり
大分納得のいく押しができるようになっていました。
しかし後半にさしかかり、例の通り集中力が切れ、
少しボーっとしながら施術を続けていました。
そして彼女に対して、押してはならない場所を押すという
禁則事項をしてしまったのです。
怒った彼女は持っていたマッサージの手引きで、
僕の頭はたき、「もういい!」といって、
それ以上、僕の施術を受けようとはしませんでした。

幸い、彼女の怒り以外は何も引き起こさなかったのですが、
一歩間違えれば彼女の体を傷つけることになりかねなかった
自分の過ち。マッサージという人の身体を触る
センシティブな行為で、気を抜くという自分の甘さ。
その晩、僕は深く反省をしていました。
薬草を使った風邪の治療
翌日、そのことを彼女に詫び、再度マッサージを
させてもらうことに。だいぶ意識を高めていたので、
その回は最後まで集中力を保った状態で施術を
やり遂げることができました。そして不思議と、
それ以後の回も自然と集中力を切らさなくなっていました。

彼女への失敗から学んだこと。
今、目の前にあるものへ意識を集中させるということ。

思い返せばそれができずにマッサージだけではなく
自分の多くの苦い経験を引き起こしていました。
目の前にあるものへ集中すべきところで、キャパを超え
他の活動へ参加し意識を拡散、そして最悪どちらも共倒れ
といったことが度々あったのです。今後はその失敗を
繰り返さないよう、彼女から教えてもらったことを
深く刻みつけます。

実りある三週間になりました。一人前になるまで
5年はかかるタイマッサージ。

僕のレベルはかなりのアマチュアですが、
気軽に声をかけてください。

ではでは。

2010/12/02

世界一気持ちいい?タイマッサージ

誰が言ったのかはわかりませんし、信憑性があるのか
どうかさだかではありません。

「タイ古式マッサージは世界で一番気持ちいいマッサージ」
らしいです。

そんなタイマッサージを僕が修行することになるとは
我ながら思ってもみませんでした。

まず修行に至る経緯を説明すると、ロッククライミングに
より疲れ果て、ボロボロになった身体。その晩、
初めて施術してもらったタイマッサージに感銘を受ける。
体も心もすっきり。この手でこの感動を人に
与えることができたら、どんなに幸せなことかと思いました。
そして、首都バンコクにあるタイマッサージの
総本山ワットポーというお寺に付属するマッサージスクールを
発見、入学を決意。ラオスをしばらく訪れた後に、
修行開始。そして、当初一週間の予定だったものが、
タイマッサージの魅力にはまり、3週間修行することに。

ワットポー
今回と次回はそのことを記します。

一週目。基礎コース。まずはタイマッサージの基本を覚える
外国人向けのコース。クラスメートはフランス人青年、
フィリピン人女性、日本人女性二人、日本人青年一人。
素敵なメンバーでした。
(途中で二人の男性は脱落することに…)

コース内容としては毎朝の軽いお祈りに始まり、夕方まで
講師の指導のもと、マッサージをクラスメート同士で
施術し合うというもの。限られた時間の中で、
タイマッサージの全過程を覚えなければいけない
というプレッシャー、そして力強く押し続けるために
おこる親指痛。入学前に想像していたよりも
僕にとっては厳しいものでした。

コース最終日には試験があり、実技と口頭試験。
かなりミスを連発しましたが、いちおう合格。
ただ全然、自分の押しに納得がいかなかったので、
違うコースを次週受講することを決意。

宿泊先のカオサンロード

二週目。習熟コース。クラスメートなし。
事前に聞かされていた内容は、講師の監視のもとの、
一般人ボランティア15人に対して施術していくというもの。
何故か値段は基礎コースの三分の一以下。

しかし蓋を開けてみると、少し違いました。被術者は
一般人ボランティアではなく、なぜかプロの
マッサージ師の方々。ただし彼らはたまに来る程度。
つまり朝から夕方まで多くの時間を担当の講師と二人で
過ごすことに。基礎コースと違いマンツーマン形式で、
押す角度や力の入れ具合など指導が細かい分、
習う方としてはどんどんと納得のいく押しが
できるようになっていきました。

おもしろかったのが、指導方法。英語をしゃべることが
できない担当の講師、タイ語に明るくない自分。
つまり、軽い挨拶などでしか言葉を交わす手段がなく、
指導は全て身体を使ったもの。押して、押されるの繰り返し。
言葉がわからずとも、距離が近づいていった気がします。
お互い多少のストレスもありましたが、非言語
コミュニケーションだけで一週間乗り切るというのは、
貴重な体験になりました。 

途中インフルエンザで寝込んだこともあり、
再度、同じコースを受講することを決意。

続きは次回の記事で。
大河メコンに沈む夕日(手前がラオス。向こう岸がタイ)

2010/12/01

ある日の崖登り

9月の下旬。タイのチェンマイ。初めてのロッククライミング。
昔、友人からその魅力を聞かされて以来、ずっと挑戦してみたかった。
漸く、その機会がやってきた。 


その日、幸運にも僕一人に対し二人のインストラクターが
付くことになった。彼らがお手本として登るのを見ながら、
僕の手は震えていた。わずかな岩の起伏を見つけ、
それを頼りに、登っていく。何とも難しいそうに見えた。
そして、体を支えるための一本の縄と岩に打ちつけられた釘が
何とも頼りなさそうだった。

あっという間に自分が実際に登る番がやってきた。
いざ登りはじめると、すでに感じていた不安は恐怖となった。
上へ行くための岩の起伏や狭間、なかなか見つからない。
その間にもどんどんと力が入らなくなる腕。そして下を見れば、
すでにかなりの高さ。もし縄が切れたら死ぬんじゃないか
というリアルさ。その恐怖を乗り越えるために、
とにかく上を目指した。夢中になっていた。


なんとか目標点に到達。その時感じた達成感は、
とてつもなかった。下をみれば、自分がスタートした場所は
小さく見え、限界を出した手のひらはプルプルと震えていた。
素直に嬉しかった。

下に降りた後は、インストラクターにその感動を伝え。もう2回、
違う岩にチャレンジした。僕はすごく興奮していた。
自分の体だけを頼りに、自然に挑むことは、爽快だった。

その日の帰りの移動中、自分が登った崖は初心者用のレベルの
低いものであり、レベルの高いものを登った時の達成感は
もっと深いものだということを話してくれた。

そして僕はそのことを聞いて、また挑戦することを決めた。


友人がおもしろさをかったてくれたように、
僕もまた違う友人に勧めみようと思う。

みなさん、ロッククライミングはかなりありですよ!

2010/09/14

大人のディズニーランド

今回は少し卑猥な街のことを綴ります。

フィリピンを旅立つ前日の9月10日の朝、僕は迷っていました。
アンヘラスで一泊するか、再び戻ったバギオという街で一泊すべきか。

アンヘラスはかつて世界最大の在外米軍基地と言われた
クラーク空港に隣接する街。今では、当時の慰安施設が発展し、
フィリピン随一のゴーゴーバーの街として、一部の男性の間で
有名になっているようです。



アルファベットで「Angeles city」、その魅惑の名前
に惹かれ僕は迷いました。「もしかしたら過ち犯すこと
だってありえる、だけどゴーゴーバーどんな場所か経験してみたい」。

数時間迷ったあげく、語学学校の年上の友人の

「お前には早過ぎる。」

という言葉を無視し、僕はアンヘラスで一泊することを
決断したのです。

着いてみたら予想以上のことだらけ。かなりの田舎なの
にも関わらず、中年のアメリカ人と韓国人男性を主に
外国人男性が大勢街にいました。そして、ゴーゴーバーと
セクシーなフィリピーナの圧倒的な数。すごい光景でした。

夜になり僕はゴ繁華街に繰り出しました。ただそこまで
きても、僕は入るべきかどうか迷ってました。むしろ
アンヘラスの街の醸しだす怪しげな雰囲気に怯えていたのです。
繁華街入口にあるマクドナルドで過ごすこと一時間。
とうとう僕は、意を決してゴーゴーバーに入ることにしました。

まずは店選び、どれも同じように卑猥な感じで、どれも同じに
見えます。違いといえば、外にいる女性の雰囲気。
店によって特色が異なるようでした。ただどの女性たちも、
プロフェッショナル感が漂いすぎていて、ちょと怖い感じ。
店選びから路頭に迷う中で、化粧も薄く服装もカジュアルな4人組の
女の子たちを僕は発見しました。

もうここしかないと覚悟を決め、僕は尋ねました。

僕「どこに勤めているんですか?」

彼女たち「え?」

僕「どこのバーかってことです…」

彼女ら「すみません。私たちは大学生で、ここでブレスレットを
売って、環境保護の活動の資金集めをしてるんです」

予想だにもしない展開に戸惑う僕。アンヘラスのような危ない街で
資金集めをするような立派な大学生たちにまさかどこぞの卑猥なバーで
働いているなどと質問をするなんて・・
その瞬間かなりの気まずさが場を覆い尽くしました。そして、

彼女たち「ところで、あなたは誰ですか?」

混乱した僕は、

僕「明日、クラーク空港を使うから、この街をぶらぶらしてるだけ。
それに僕も大学生さ。~~。」

無駄に自己紹介と言い訳を始める僕。必死でした。
中途半端に会話が盛り上がりはじめ、その場を離れなくなって
しまったのです。そして何故か既に一時間近くも過ごした
あのマクドナルドに彼女たちと行くことに。

「ここで何をしているんだ」

という思いを感じながらも、無邪気な彼女らとの会話を楽しみました。

そしてマクドナルドで再度一時間過ごした後、彼女らはホテルに
帰っていきました。修羅場を潜り抜たその後、数件のバーを
梯子しましたが、すでに疲れ果て眠気に襲われていたために、
セクシーな女性たちとの会話に集中できず、僕はホテルに帰りました。

このようにして大人のディズニーランド”アンヘラス”の夜は
僕にとって苦い思い出となったのです。以上


次回からフィリピンからタイに舞台を移します。

マニラという都市で

マニラ滞在の最終日、僕は日本のとあるNGOとコンタクトを取り、
パヤタスというスラム街を訪れました

皆さんはスカベンジャーという言葉をご存でしょうか。
フィリピンではゴミを集め暮らす人々のことをスカベンジャーと
呼びます。パヤタスという場所には、マニラのケソン市のごみが
長年に渡り積み重ねられ、まさしくごみ山ができあがっています。
その周りには、スカベンジャーをはじめ、貧困層の人々が暮らす
スラム街が広がっています。

光と闇
まず僕が訪れて強く印象に感じたのが、におい。生ごみの腐った
ような腐敗臭が街全体を覆い尽くしています。仮に普通の街中で、
あのにおいに遭遇したら、僕は鼻を摘まみ、すぐにその場を離れて
いたと思います。

また政府機関・海外からのNGOが手を差し伸べているにもかかわらず、
パヤタスに住む人々が増え続けているという事実も驚くものでした。
その原因が、一家庭平均5,6人もの子どもがいるということです。
多くの貧困にあえぐ家庭が多数ある中で、子どもが大勢いるという事実。
当然、学校に行けない子ども増えるし、一人一人が食べる食事の量が
減ることなどは容易に想像できます。

何故、そのようなことが起こるのか?

フィリピン人のスタッフがいうには、家族計画(ファミリープランニング)の
知識不足と、教会によるコンドームの使用なタブー化と中絶の禁止が
原因だそうです。厳格なキリスト教徒が多数を占めるフィリピン。
前回消化したフィリピンの青年はキリスト教の精神があるからこそ、
フィリピンの人々は貧しくとも明るく生活できるといっていましたが。
パヤタスでは逆の方向にその精神が作用しているとしか思えませんでした。
このような宗教に関わるような分野に外国人は手を出しづらく、
フィリピンの人々自身で決めていく問題なのだろうと僕は思ってます。

ただし、そのような問題を抱えるパヤタスで僕がはっとしたのは、
そのような街でも、ちゃんと社会が成り立っているということです。
そこには食事処、商店、洗濯屋、ビリヤード場などもちゃんと存在し、
貧しい人々のための街として、機能していました。どんな状況でも
それぞれに合った人々の営みが行うるということは、僕にとって
新鮮な発見でした。

商業地区のマカティをはじめ東京都心にも劣らないような立派な街
があり、フィリピン大学やアテネオ大学で次の世代を担う優秀な人材を
育てているフィリピンの首都マニラ。
一方でパヤタスのように世界でも有数のスラム街があるマニラ。

一体このマニラという都市が、数年後この地を再び訪れた時に
どのような姿になっているのか楽しみでなりません。

暗い一面が減り、明るい方向に進んでいることを願います。以上

2010/09/13

ルームメイトと『フラット化する世界』

語学学校があるバギオを離れ、日本でも有名な首都マニラに
向かいました。そこで、最初に行ったことは、3年前に一緒の寮で
同じ部屋に住んでいたフィリピンの青年と会うためです。

彼が住んでいるという待ち合わせの場所イーストウッドに着いて、
僕は驚きました。まるでそこはフィリピンの六本木ヒルズ。
高層マンションとセンスの良いショッピンモールが一緒になった
お洒落な街。こんな場所に新卒一年目の彼が住めるということが、
日本にいた当時ただエロかった彼のイメージからは想像できなかったのです。

約束の時間から20分以上経った、フィリピンタイムで彼は現れました。
日本にいた当時と変わらぬ、Tシャツ、ジーンズスタイル。
彼の行きつけのイタリアンレストランに行き、まずは思い出話に花を
咲かせました。彼の口から、当時寮に住んでいた寮生の名前や思い出は、
僕を懐かしさに浸らさせてくれました。

そして次に話題になったのが、新卒の彼が何故イーストウッドのような
洒落た街に場所に住めるのかということでした。

すると彼の勤め先が、外資系の広告会社でその場所にあり給料も
いいとのこと。そして、文芸サークルに所属していた彼はそこで
コピーライターとのして働いているそうです。ただし、彼の会社が
作っている広告はフィリピン人に向けたものではありません。
アメリカの企業が依託したアメリカ人向けの広告だそうです。
例えば、彼の最近終えた仕事はアメリカにある美容院の宣伝の制作だとか。


この話を聞く中で、僕は旅に出る前にHさんに勧められて読んだ
フリードマンの『フラット化する世界』を思い出しました。
「世界のフラット化」とは、かつては地球の物理的には丸さにより
違う方面を向いていた各社会が、インターネットや社会システムの
変化によって、まるで平面上の同じ舞台にたっているのかのように、
社会が動いていくというものです。


彼の仕事などはまさしく、『フラット化する世界』で挙げられていた
主要なキワードであるアウトソーシングの例と重なるものでした。

アメリカやイギリスなどの経済的に豊かな国の企業は、会計・広告
・コールセンターなどの事業をコストの低い国で任せることで、本当に
集中したい事業にお金を投資する。そうすることで、ビジネスを
次のステップに勧めていく。このプロセスが当たり前になってきて
いるということを肌で感じました。

また彼は『フラット化する世界』でも話題になっていた国外へ移住に
ついても語ってくれました。現在、能力がある多くのフィリピン人が
高い給料を求めて、海外に移住していとのこと。そのことは
彼ら自身の幸せはもたらすけれど、結果的にフィリピンの次の社会を
作る才能ある人材を流出することにつながる危険をともなっていると。
しかし、友人も早く海外で働きたいと言っていました。

これら二つの話題はフィリピンだけに当てまはるものではなく、
日本社会のこれからに大きく関係していることだと、僕は強く感じていました。

彼との再会は、僕に色々にいろいろなことを投げかけてくれました。感謝。

そして、最後にエロいとだけ思っていた彼がかなりのキレ者だということが
彼に再びあってみてわかりました。その誤解の原因は、当時の僕英語が
だめだめで、女性の話などの軽い話題が中心になっていたからだと思います。
今回の再会では深く話せ、ちゃんと彼の想いがわかるし、自分の想いが
伝わるようになっていたので、よかったです。以上。

フィリピンで有名な孵化直前のゆで卵”バロット”

3人のフィリピーナ

今回も語学学校について。

前回述べたように、生徒と教師が一対一の授業形式。
二人で同じ時間を毎日毎日共有するわけですから、
何もないわけはがりません。
気が合えば自然と仲が深まります。

僕の場合、3人のフィリピーナとの交流が特に思い出
深いものになりました。今回は少し長くなりますが
そのことについて綴ります。

2010/09/12

フィリピン語学学校

日本を離れ、約2ヶ月が経ち、昨夜、僕はタイのバンコクに着きました。
今までのことを一度振り返ろうと思います。

これまでのほとんどの時間を僕はフィリピンで過ごしました。
その一番の目的は英語の語学学校へ通うためでした。

「フィリピン」×「英語の勉強」

まだ日本ではこの選択肢は馴染みのないものだと思います。
しかし、お隣の韓国では数年前からすでにブームとなっているようです。
すでの多くの韓国人経営の学校があり、多くの韓国の若者がフィリピン
に語学留学を行っているのです。

今回は僕の経験を踏まえ、少しフィリピンの語学留学について
語ってみようと思います。

はじめに、フィリピンへの語学留学の良さについてです。

1.マンツーマンのレッスン
まずフィリピンの語学留学最大のウリが、一対一形式の授業です。
賃金の低い国だからこそ可能な教師と生徒のマンツーマン形式のクラス。
当然複数人によるグループでのクラスと比べ、生徒の発言する機会は
格段に多いです。また教師も一人への指導に集中できるので、
文法や発音のミスも、その都度、丁寧に説明してくれます。

2.フィリピン人の英語
またアメリカ英語をもとにしているものの、音の消失や接続が少ないので
フィリピン人の英語は非ネイティブにはとてもクリアーに聞こえます。
英語の初級者にとっては、先にフィリピン英語で、一つ一つの音を
聞けるように耳慣らしすることは、将来的にハードルの高いアメリカ英語を
聞けるようになるいいステップなのではないかと感じます。

3.授業料と滞在費の安さ
そしてフィリピンの物価はアメリカやオーストラリアなどの英語圏に
比べて格段に安い。そのため、フィリピンへ留学する費用もやすくなります。
一カ月8万ぐらいから、留学することが可能。留学の最大のネックの
お金のハードルも、この国への留学の場合は低いのです。

このような利点があるものの、問題点も少なからずあります。

1.タガリッシュ
タガリッシュとは、文法や語法は正しくても、発音がアメリカ英語とは
異なるフィリピン独特の英語です。第二公用語が英語とは言え、
日常ではタガログや方言をしゃべるフィリピンの人々。経験の
浅い教師やメアメリカの英語に触れることをしてこなかった教師は
どうしてもタガリッシュをしゃべることになります。初めのうちは
何をいっているのかわかりません。

2.教師の質
一対一の形式の授業において、教師の実力はとても重要です。
当然、この形式を実現するには、大量の教師を雇うことになります。
そのため、質の高さを保つが困難になることも。すべの教師が英語
を十分に理解していても、中には教えること上手いとは言えない教師が
含まれることになります。

このようことが、僕が考えるフィリピン語学留学の利点と問題点です。

そして結論になりますが、僕はフィリピンに語学留学して良かった
と思います。留学する前は、簡単な文でさえ口にするのに時間が
かっていましたが、留学終え、だいぶすらすら言えるようになりました。
それに以前は、外国人としゃべるのを避けてばかりいたのですが、
今は楽しく感じるようになりました。それは、会話力を上げるのに
不可欠な絶対量をこの留学でこなせたからだと思います。

このようなことから僕としては、英語、特に会話に苦手意識を
持っていて、外国の人々との会話を楽しめない人には、
フィリピン語学留学をお勧めします。また時間や資金的に厳しい人にも、
レアジョブなどのオンライン英会話などを活用されてみてはどうでしょうか。

世界遺産”バナウェのライステラス”
次回は、語学学校で出会ったフィリピンの人々について語ります。

2010/07/05

Octber Sky

Twitterで見た「起業家精神育成の最高の教科書」という言葉の
惹かれて見た映画。想像よりも遙かに素晴らしい作品だった。




<内容>
October Skyはアメリカの炭坑町を舞台に、四人の高校生が
ロケット作りに青春を懸けた物語。ソ連の人工衛星スプートニクの
打ち上げ成功に感化された彼らは、自らの手でロケットを作ることを
決意する。挑戦を初めた彼らに待ち受けていたのは、周囲の
冷ややかな目と度重なる失敗だった。しかし、彼らは諦めることはなかった。
苦難を諸ともせず、前と進んでいく彼らに徐々に周囲も
心動かされていくことになる。そして彼らは全米科学コンテストで
優勝を果たす。最期の場面では、最後まで主人公の青年を認めようと
しなかった頑な父の心も折れ、生き方は違えど父と息子は互いを
受けいれたのであった。

<感想>
おそらく周囲の誰もが炭坑の青年たちが本当にロケットを作れるとは
思えなかっただろう、というより前例がないが故に彼らを信じることが
できなかったのだろう。そんな状況でも最後まで夢を諦めなかった
彼らはすごい。彼らのように常識を打ち破り先へと進んでいった人々の
物語に僕の胸は打たれる。

大半の人にとって常識は重くのしかかり、何か新しいことやろうとしても
いつの間にか常識に飲み込まれる。もしかすると挑戦しようとした思いさえも
忘れらてしまうのかもしれない。だからこそ、この物語の青年たち
のように常識を打ち破った行為は人々から偉業として称えられるのだろう。
それは、ガンジーやキング牧師、ミルクなどの偉人にも当てはまる。
ただ彼らは最初から偉人として賞賛されるためにその偉業を成し
遂げたのではないはずだ。もし初めから賞賛を狙い周囲の評価を
気にしていれば、常識という周囲の目の集合体に勝つとは考えられない。

きっと彼らはひたすらに最後まで自分の信じる道を歩み続けたのだと思う。
そんな希有な人間に僕は憧れるし、そんな人間でありたい。

2010/07/02

旅に出る理由

「もっと大きな窓からこの世界を感じ、生きたい。」


はじまりはアジア学院という栃木にある学校。
世界十数カ国の人々と、共に暮らした一ヶ月。
自分の人間としての小ささに気づかされた。
どんどんと自分が崩さていくのを感じた。


小さな窓からしかこの世界を見れていない自分。





狭い環境で培った感覚をこの世界の常識と信じる愚かさ。
一歩外に出れば、すぐにぼろがでた。


そのことを痛感し、僕は思った。


このまま「井の中の蛙」で終わりたくない。


世界と自分をつなぐ窓を広げよう。


自身の五感を使い、もっとこの世界を感じ、
そこに暮らす人々と交わってくることを決めた。


その結果として、自分がどのうなるのかわからない。
ただの時間とお金の浪費で終わるんじゃないかという
不安もある。けど僕の人生にとって大切な経験になる
はずだという思いのほうが遥かに強い。

だから僕は旅に出ます。

2010/03/08

「意図的な変態」になる宣言


先日、スローガン(就職支援の会社)で行われた
セミナーに参加し、僕はこの休学期間中は意図的な
変態になろうと決めました。

そう決めたのは、セミナーでおもしろい話を聞いたからです。

「社会的に何か新しいことをする時は、必ずといっていいほど、
周囲から、”おまえじゃ無理だ”、”そんなことできるはずない”と
言った否定を受ける。それでも、そんな否定を乗り越えて社会で
大きなことを成し遂げる人たちは、若いころに『ブレイクスルー体験』を
していることが多い。そうでなければ、周囲の人からの否定に
負けてしまう。」

と言った趣旨の話でした。

ブレイクスルー体験、つまり普通はそれが正しいと思われていることに
従わず、自分の価値観を信じ行動を行って結果として、成功をおさめること。

このブレイクスルー体験は日々生活していても、なかなか
できることではありません。それは言い古されていることですが、
気づかず間に「普通」は多くの人々の考えを支配するものに
なっているからです。

そしてセミナーでも言われていましたが、そんな「普通(既存)の価値観」に
屈しない人々は、ネイティブな変態か意図的な変態のどちらかだと。

「ネイティブな変態=生まれつき良くも悪くも普通じゃない人」にとって、
ブレイクスルーを起こす可能性は高い。それは生まれつき普通という
価値観を理解しないから、彼らの行為は自然と普通から外れたもの
になっているからです。

しかし僕はネイティブな変態ではありません。かなり普通な人間です。
かなり空気を読みすぎて、空気みたいな存在なってしまうことも
多々あります。周りからも「真面目が取り柄だ」みたいに言われます。
それは良い意味のなのかもしれませんが、裏を返すと既存の価値観を
ばりばり尊重しているという意味だともと捉えられるのです。

そんな僕がブレイクスルー体験を起こすには、そう意図的な変態に
なるのが一番。最初は演技でもいい、普通(既存の価値観)を意識して、
あえてそれを踏まえず行動しようと意識すること。そうすることで、
いつしかブレイクスルー体験を積み重ねることができるのではないかと
考えます。そして周りの「お前じゃできないよ」否定にもめげない人間に
なっていくのではないか。

そう信じ僕は宣言します、

「この休学期間中に意図的な変態になる」と。

やーまん

2010/03/04

BLOG START!



改めて、ブログをスタートしました。


過去に幾度も三日坊主になったので、
当分は続けることが目標です。

昨日から、楽しかった大学生活を離れ、
休学生活がスタートしました。

今から始まる新しい生活に胸が高鳴ります。