2010/12/27

ガンディーさんならどうしたのかな。


夜道を歩いていると、突然背後からバイクに乗った三人組の
男にラリアットを喰らわされた。後頭部直撃。そしてこちらを
激しく睨みつけたまま彼らは走り去り、闇へと消えていった。

いやいや、そっちが睨みつけてくるタイミングじゃないだろ。
被害者はこっちなんですけで・・・( ゚Д゚)ハァ? 

軽く脳振とうを起こし朦朧とする中で、僕はそう思った。

一瞬、はげしく憎たらしかったが、どうすることもできない。
何より彼らを憎んでも何も生まれない。

尊敬するガンディーさんならどう考えるだろうか。

僕が氏を尊敬するようになったのは、彼の自叙伝の中で
以下の下りを読んで感銘を受けてからのこと。
(記憶が曖昧なので正確ではないかもしれません)

ロンドン大学を出て弁護士となったガンディー。若かりし彼が
南アフリカに渡った当時、そこでは黒人だけでなく有色人種も
差別の対象になっていた。ある日正規のチケットを持ち、列車の
一等車両に乗っていた彼を、新米の警官が下等車両に移そうとした。
しかし彼はその要求を拒み、叩き降ろされる。


後日、そのことを聞きつけた警察署長は差別撤廃運動ですでに
影響力を持ちつつあったガンディーのことを知っていた。そして、
新米警官を処罰することを彼に申し出た。するとガンディーは答えた。


彼一人を処罰して何になるのか、彼は正しいと思うことをしたまで。
この国の社会自体が変わらねば、何一つ問題は解決しない。

この流れ...叩き降ろされるという辱めを受けても、それをした
加害者自身を憎むのではなく、彼をそうさせた社会を変えようとする。
なんという深い見識、それ以上になんて強い魂を持った人間なんだ。
僕はそう思い感動した。

きっとそんなガンディー爺さんなら、ラリアットの男たちを
憎まず、そのような行動に駆り立てたインドの社会のあり方を
問題として見つめるんだと思う。

たぶん日本人なら学校やメディアなどで、外国人のことを少しは
知っている。ただこの国で、学校も行けなかった人、読み書きが
できず新聞を読めない人、テレビを買うお金がない人なんかは
外国人のことなんてほぼも知らないんじゃないか。

そんな異質なものが目の前に急に現れたら、そりゃビビるだろう。

きっと彼らが夜中に僕を襲ったものも、彼らを無知によって
狭い世界観に閉じ込めた社会的原因があるのだと思う。

木に触れ、まず森を見る。

今回は幸いにもインドというガンディーの生まれ故郷で
氏の思想を、自分の経験に当てはめて考える希有な機会を得た。

ラリアットの男たちとの出会いに感謝。以上

2010/12/25

問われること。決めること。


毎日、僕が関わっている子どもたち。

両親・片親が死に施設で暮らすエイズの子どもたち。
彼らの命は短い。しかし、施設で彼らには三食の食事が
用意され、学校に通い勉強することもできる。

そして毎日、僕が通りすがる子どもたち。

毎日道路の傍らに立つ貧しい子どもたち。信号待ちをする
車の窓を叩き、お金を求める。車に引かれた傷跡が生々しい
子もいる。そして彼らは学校にいくこともできない。
不衛生なスラムで暮らす日々。ただ彼らには親がいる。
そして命が短いわけではない。

毎朝、そんな彼らからお金を求められ、その切な要求を拒み、
HIVに子どもの施設に行く。

「どちらの子どもたちのために力を尽くすべきなのか?」

毎朝問われる。残念だけど、今の僕に両方とも
まとめて手助けなんてできない。力不足の実情。

ちょっと考えてみたこと。

ストリートチルドレンを手助けする意味。学校や
フリースクールで彼らが知識を得れば、彼らが職に
付けるチャンスが増える。そうすれば、物乞いの子が
物乞いとしていきる悲しき連鎖は止まる。また知識に
よってHIVのことも知り、感染の予防にもつながる。

エイズ孤児を手助ける意味。限られた短いものだからこそ、
それを濃いものにして欲しい。親がいないという辛さ、そして
自分に全く責任がないのにも関わらず背負わされたエイズという
悲しさを少しでも忘れて欲しい。だから彼らの傍に立つことは大切。

ガンディーの言葉
ただこの二つの選択肢を客観的な秤では計れない。

そしてどんなに考えてみても、一か0かの答えはでるもの
じゃない。客観的に考え選択肢を用意できても、どれが
絶対的に正しいなんて言えない。

最後に求められるのは客観的な1か0の答えじゃない。
自分の直感によって決めた1でもなく0でもない脆い答えを、
自分の決断を信じることで、すぐには崩れない強固な答えに
すること。自分の選択を納得する力が求められるんだと思う。

問われるということは、正しさを求めることじゃなくて
何かを決めること。

最近そんなこと感じています。以上

素敵なクリスマスプレゼント

まずは昔話。

事情があって地区の中学校ではなく、離れた場所にある
別のに小中一貫の学校に僕は入学した。

良家の子どもたち、すでに出来上がった友情関係、
その環境に馴染めずに僕は入学早々孤立してしまう。
そしていじめにあった。

やはりいじめは悲しいもの。学校では泣かなくても、
人がいない帰り道で一人涙したこともあった。
ただ誰にも相談しなかった。

よくいじめの問題で教師や親がそのことを把握してない
ということがある。しかし、それは彼らの責任だけでなく、
子どもが恥ずかしくて外にだそうとしない頑な姿勢が
大きな原因だと僕は思う。

エロ―ラの石窟
そこで一人悩んだ自分は何故か本屋に向かった。
社会人が向けの人間関係上達法みたいな本を数冊買い、
読みふけた。今思えば謎なプロセス。

そして、本で書かれていることを実践すると不思議と
孤立することがなくなり、いつしかいじめはなくなった。

ただその時以来、「自分は本に頼らなければいないほど、
対人関係の力がないんだ」と強く思うようになった。
劣等感という後遺症。

その悩みを克服すべく、色々なことにチャレンジした。
例えば、何度も1000人以上の前で話す機会を得るために
高校時代は生徒会の副会長になった。知らない人と話す力を
得るために、東京から九州までヒッチハイクをした。

それでもなかなか後遺症は払拭できなかった。

ただ旅に出てから、ようやく違う見方ができるように
なってきている。

多くの土地でたくさんの人に出会い、しゃべり、仲良くなった。

そして昨日のクリスマスイブ。偶然スペインの子から彼らの
パーティーに誘われた。見知らぬ欧米人十数名とのディナー。
行く前はびびった。しかしいざ終わってみると、レストランで
ワイン片手に楽しく談笑し、深夜までクラブで盛り上がった。
クリスマスパーティー
「やればできるじゃん。少しは前進したのかも」

この先、後遺症が完全になくなることはないのかもしれない。
ただ人見知りだけど、最低限必要な人と仲良くなれる力は
備えてるから大丈夫。そう思えるようになってきた。
長らく苦しんできた悩みが消えて安心を得ようとしている。
これも全て色々な人との出会い、そして経験のおかげ。

ほんと感謝やわ。

2010/12/20

十人に一人。習慣化の壁

「毎日、計画・実行・反省を欠かさなかった」

この言葉は『流学日記』の著者である岩本悠さんに、
なぜ彼のような濃い旅ができたのか尋ねた時に
返ってきた答え。 

『流学日記』。旅に出る勇気を与えてくれた本。
もし寮の先輩がこの本を紹介してくれていなければ、
大学を離れてまで旅に出ることはなかったかもしれない。
それぐらい自分にとって衝撃的だった本。その本を書いた
憧れの人物から直接教えてもらった旅の秘訣。

その時は「絶対自分も実行するぞ!」と思った。
もちろん岩本悠さんにも「実行します!」と伝えた。

しかし旅に出て数カ月経った今現在。
未だ継続する習慣として定着せず。残念な状況…

どこでだか、こんな話を聞いたことがある。

「通常、講演会やセミナーなどに参加した人の内、
そこで聞いたことを一回でも実践する人は4分の1以下。
さらにそれを習慣として継続する人は二桁に満たない」

つまり90%以上の人にとって、そこで得たものは
単なる情報。そこで止めてしまっていることになる。
情報は利用しなければ、無駄なものにすぎない。

服や物は買えば直ぐに身に付けることができる。
買うまでの努力はいるが、身に付けるのに労を要さない。

しかし、継続する習慣の場合はそうはいかない。本人次第。
ここが難しいところ。どんなに高いセミナーに参加しても、
参加した人自身の気持ちと努力がなければ絶対身に付かない。

習慣化の壁。心移りし易い自分には、この壁は高いもの。
これまで多くのことを習慣させてこなかった悲しい過去。

ただ、ようやく変化の兆しが見えてきたかもしれない。
今の滞在先ジャイプールに来てからのこと。一か所に
留まり落ち着いたおかげで、今までよりも頻繁に
「計画・実行・反省」の時間をとり始めている。

継続する習慣は一日にして成らず。
飽きずにこつこつ実践していくしかない。

2010/12/18

噛みつき攻撃~その2~

たくさんの薬

前回の続き。

『インドではHIV陽性の子どもを受け入れない学校がある』

僕がここに来る前、このことを知ったときは、なんて冷酷な社会
なんだと思った。


ただ、インドの子どもと触れ合った今は必ずしもそう割り切れ
ないんだと思うようになった。HIVウイルスを持たない子どもの
親の立場からした、上のやり方を支持するのは、
自然なことかもしれない。

インドの大人たちはインドの子どもたちがどれだけわんぱくかを
十分に知っている。だからこそ、血液の直接接触による感染を
恐れるのではないだろうか。

学校に受け入れないことは無知による差別ですむ問題じゃない。

しかし、そのことが、今のインドではサポート不足でHIV陽性の
子たちの教育機会のはく奪につながることもまた現実。

どちらが正しいという問題じゃない。難しい。

2010/12/17

噛みつき攻撃~その1~

インドの子育ては荒々しい気がする。

ここにいる大人たちは言葉で注意よりも先に、ほっぺを叩く。
考えさせる前に、まず痛みで教え込むのだろう。

目の前でかわいい子どもたちが、「えっ!このタイミングで…」と、
叩かれるのを何度も見た。ただ彼らは泣かない。慣れていた。

しかしその影響か子ども同士でも、手を出すことが多い。
すぐに、叩き、蹴り合う。さらには噛みつくも。

もちろん、時には僕にも迫ってくる。彼らにとって普通なのだろう。

もし彼らが普通の子どもだったら、きっとわんぱくなインドの子ども
として話しはすむ…
叩きあう子ども

しかし、僕が触れ合っている彼らはエイズの子どもたち。
ただのわんぱくなケンカやじゃれあいですまない場合がある。
他の人を感染させてしまう可能性。血液の直接接触。

例えば噛みつき攻撃。口に切り傷がある陽性の
子どもが他の子を出血させるまで噛んだとしたら。

幼い彼らはいまいちエイズの特性をわかっていない気がする。
そもそも6歳ぐらいの子どもなんかには難しすぎるのかもしれない。
また仮に無理やり「お前はエイズだから、他の子どもとは違うんだ」
と教え込むのは、彼らのの自尊心を大き傷つける可能性もある。

それに理性で自分を抑えるのが難しい子どもたち。
結局、何をしでかすかわからない。

どうやって、彼らを他の子に感染させないよう、上手く教えて
あげれられるのだろうか。悩む。

2010/12/16

井の頭公園~その2~

前回の続き

スラムの薄暗い小さな小屋。素敵な話しはここまで。
インド産ミッキーマウス?
子どもたちをそそくさと帰らせた彼ら。そして彼らは表情を変え、
迫ってきた。

「僕たちの活動に共感しただろ。で、君は何ルピーを
置いてってくれるの。5000ルピーぐらいかな?」

不意打ち。急に高額な資金援助を求められるなんて
思ってもみなかった。動揺するも丁重にお断り。

「お金がいやなら、何か買っくれ。今から買いに行こう!」

すかさず違う角度からの要求。高額なものを
買わされそうな予感。丁重にお断り。

「それじゃ団体のためじゃなくていい。僕の絨毯屋で
商品を買ってくれ。日本で売れば、君はぼろ儲けだ。」

えっ・・・何が何なのかわからなくなる。ただ間違いなく自分に
絨毯はいらなかったし、日本で絨毯を売る気にもならなかった。
丁重にお断り。

「それなら僕たちに食事をご馳走するってのはどうだ?
チキンが食べたい。チキンの丸焼きだ!良いレストランを知っている。
一緒に行こう!」

チキンの丸焼...子どもみたいに駄々を捏ねだす彼ら。
ただ彼ら全員に食事を振舞う理由を微塵も感じない。
はっきりとお断り。

「チキンが嫌って、ベジタリアンか?じゃあ、僕たちはチキンを
食べるから、君は野菜を食べればばいい。そうだろ?早く行こう!
今夜はご馳走だ。」

彼らからの最後の要求だった。
青色のチョコレートケーキ。600ルピー
呆れてしまい返す言葉がなかった。

小さな小屋で繰り広げられた数人のインド人と一人の日本人との
やり取り。彼らの凄む様子は軽く恐喝だった。

目的のためには手段を選ばぬ。

力強く生きるインドの人々の様子を垣間見ることができた。
偶然の経験に感謝。

2010/12/15

井の頭公園~その1~

インドで一番宝石が安く買える街ジャイプールに着いた日の晩。

ジャイプールの街並
リキシャの運転手に声をかけられ、少し話しをすることに。
すると、彼は友人と共にスラムの子どもに教育支援活動を
行っているとのこと。

さらに、活動現場を見せたいという。警戒しつつも、
とりあえずついていってみた。

彼に連れていかれた町はずれのスラム。そこで迎えてくれたのは、
彼の教え子たち。身なりは貧しくとも、子どもたちが見せてくれた
笑顔や初対面の人間に接する態度は本当に素晴らしいもの。
リキシャの運転手と彼の友人が行っている教育活動が、子どもに
良い影響を与えていることの察しがついた。

まずは運転手の紹介でその活動団体のまとめ役と会い、
熱すぎて胡散臭さを覚える人生論を長々と聞かされた。

次に音楽のクラスを見学。教えている別の男性はプロの
伝統楽器奏者。日本やヨーロッパの国々に招かれ演奏した
経験の持ち主。そして、春に訪れた日本の写真を見せてくれた。

なんと大学近く吉祥寺、井の頭公園の写真!

こんなインドの片隅で、なじみ深い場所を見るとは。
ふいに日本が恋しくなった。
郊外

そして子どもたちの歌と太鼓演奏がかなり本格的で驚いた。

スラムという厳しい環境の中でも、教育次第でこんなにも
子どもたちの感性は磨かれるんだ。

そう思い、胸が高まった。

2010/12/12

FIGHT!!WHY NOT!?

日本の大手広告会社の人と話す機会に恵まれた。

益々増えるであろうインドへの案件。まずは自分の目で
実際の様子を知ることが大切だと考え、休暇をとってインドに
来たそうです。北の首都デリーから南のIT都市バンガロールまで
ガイドを雇い見て回るとのこと。積極的な現場指向。

そんな彼と一緒に行った映画館でのこと。
インドでも有名な映画館
僕たちはロビーで上映開始まで待つことに。彼が席をはずした隙に、
彼の座っていたソファーに現地人が座りました。

「ま、他の椅子を移動させれば大丈夫。」

みたいに考え、特に気にも留めず眺めていた自分。
すると用を済まし戻ってきた彼はその様子を見て一括!
「お前なんで、ちゃんと「知りあいの席だ」って言わないんだ!
ちゃんと闘わないから、日本人は外国で嘗められるだ!」

自己主張。思い返せば、インドに来てからよく隅にいます。
どんどん我が先と向かってくるインドの人混みの中、
いつの間にか乗り物の端にいることや列の順を
抜かされることなどが度々ありました。

小さなことも積み重ね。きっと合計すると疲労であったり、
無駄な時間のロスを生むことに。勝負を避けることは
自分にとって負の影響をもたらすことになる。
そして自分の利益を逃すことにもなる。
そのことに気づきはっとさせられました。
タイの僻地でみたウルトラマン
彼の日本人離れした値段交渉でのアグレッシブさ。
暗い場所では嘗められないために「歯は見せるな!」
という徹底した態度。今の自分に欠けている勝負師の勘。

自己主張国家インドにいるのはいいチャンス。
少しずつ勝負していきます!

サッカーで全国制覇をしたこともある彼からは、
闘う姿勢を学べた。出会いに感謝。

2010/12/11

Hey, China!

ファンキーな看板

どうやら中部から北インドの人々にとって、僕の容姿は
彼らの持つ中国人のイメージに合致するらしい。
多くの人々が、Hey, China!と声をかけ、彼らの言葉で罵しり、
そして時には水を掛けたりもしてくる。

明らかに好意的ではない態度、剥き出しの軽蔑。
けして彼らは一人ではそのような行動を起こさない。
集団のうち、誰か一人が声を出し、
そして周囲も笑いだすというお決まりのパターン。

そうすることによって、彼らの何が満たされるのかは
わからない。中印国境紛争で味わった屈辱、
中国から押し寄せてくる価格破壊の商品による脅威。
一体、何が彼らを駆り立てるのだろうか。
傷つきはしないまでも、不快感をその度に覚える。

異なるものをどう受け止めるのか、このことはヒトの
大きな課題だと思う。きっと上の現象もインド人特有の
ものではないと思う。いじめや外国からの移住者に
対する人々の眼差しといった違う形で日本でも顕われて
いるんじゃないだろうか。

この異質なものへの負の反応は、ヒトの自然な心理作用として
受け入れなければならないのだろうか、それとも
適切な教育などで乗り越えることのできる問題なのだろうか。
不可触民という考え撤廃しようとしたガンディー
もう少しじっくり考えてみることにします・・・

2010/12/08

20倍の謎

旅をしていると、気づかされるのが国ごとに違う観光政策。
国々によって、外国人を旅行者を受け入れる態勢が大きく違います。
その点、スリランカは不思議な観光政策をとっていました。
ムーンストーン
僕が訪れた国が管理するほとんどの観光名所で、外国人料金は
現地人の”20”倍に設定されていたんです。例えば、

動物園だとスリランカ人70円、外国人1400円。
滝、スリランカ人10円、外国人200円。

さらに文化遺産を巡るチケットセットが外国人向けに
5000円で販売されているのに対し、スリランカ人は
その遺産の多くに無料又は格安で入場できます。

いくら物価の安いスリランカとはいえ、観光地で現地人の
20倍の料金を毎回支払っていくのは、不愉快だし、
何より資金的に厳しい。この値段設定は、先進国から来た
\資金に余裕がある人々ならともかく、物価の安い国々の
人々がスリランカを観光のために訪れる機会を奪うはず。

非公式なラピュタのモデル「ヤッパフーア」
スリランカはコンパクトな土地の中に素晴らしい自然と
文化遺産を持った魅力的な国。タイのように多くの国々から
多くの観光客を呼べる要素があるのに、自らの政策でそれを
台無しにしている。

スリランカを旅しているとそんな気がしてなりませんでした。

2010/12/07

WHAT IS “THANK YOU”? 

スリランカでは、年上もしくは同世代であってもお金を
持っている人間が奢ることが普通になっています。
ただ日本と違うのは、この国では奢られた方がお礼と言わないこと!
仏塔だらけの国
その文化に初めて出会ったのは、スリランカの学生と
行ったレストラン。お勘定の際、店員がレシートを持ってくると、
それを読み上げ、「数百ルピー!」とだけ言い、
おまえが支払うんだという目配せ。色々な場所を
教えてくれた恩もあるしと割り切り、彼に言われた料金を
支払いました。しかし、彼からはThank youなど
という言葉はありませんでした。衝撃的でした。

後に何度も出会うこの状況。友人に訪ねてみても、
「スリランカじゃ普通だよ」みたいな、気にも留めない反応。

そして、このことで一番思い出深いこと。何故か友人との
小旅行についてきた二人の大学一年生。
そして何故か片方は外国人は嫌いみたいな態度を
とり続けていました。けれども、ホテルへのチェックインや
食事の時にはさも当然のように、友人と僕が勘定を済ませるのを
退屈そうに待っています。彼らの態度に不快感を覚えていた僕は、
友人に

「あんなやつらの分を払いたくない!」と

はっきりと意思を表しました。しかし、「この国の文化なんだ」
という友人。さすがに彼に全ての支払いをさせるのはまずい。
とりあえずお金は出しました。

カルチャーショック!トイレにティッシュペーパーがないことや、
手でご飯を食べるとか、ベッドにダニがいるとかは、大した
抵抗もなく耐えられたのに、意外なとこで不快感を覚えました。

お礼を言うこと。挨拶は当然だと思っていましたが、
そうではない人々もいるんですね。
自分が当然だと思っていることの例外を認める柔軟さが、
生きる上では必要なようです。日々学び
四十九日のような集まり

2010/12/06

毒林檎

自身の信条として人から善意でいただいた食べ物は、
何であっても残さず笑顔でいただくということがはあります。
(インドで流行っている睡眠薬入りのクッキーなどは除く)。
もし食文化が違うからといって、人がおいしいと信じて
与えてくれたものをまずいと言って拒むのは、
失礼だと僕は思うんです。
料理
さておき今回の話に入ります。スリランカはフルーツの宝庫。
僕たちになじみ深いものから、日本ではお目にかかれない
ような奇抜なものまで様々。例えばバナナ一つとってみても、
レッドバナナ、シュガーバナナをはじめ、多くの種類が
あったりもします。

ただ、いくつかのフルーツは全くと言っていいほど口に
合いませんでした。これまで、何でもおいしいと
感じられることが自分の一番の長所だと感じていた
僕にとって、このことは衝撃的でした。
本当においしくなかった。

しかし、ここはスリランカ。仏教の影響もあり、
食べ物をご馳走するのが大好きな人々。
僕が好きかどうかもお構いなし。どんどんと
おしくないフルーツを庭からもいできてくれました。
緑色の渋すぎるグァバ、アリがたかった凸凹の木の実、
そしてリンゴとは全く違うウッドアップル。
逃げられるときは「お腹いっぱい」という口実で
逃げましたが、それが通用しない時は、
「ありがとう」と言って食べました。

そして、ある日のこと。少年が半分に割ったウッドアップルの
片割れをくれました。ただでさえ梅干しのみたいな味がして
美味しくないこのフルーツ。彼がくれた実のまずさは
半端ありませんでした。無邪気そうな笑顔で「どうどう?」と
聞いてくる彼。「おいしいよ。ありがとう。」と答え、
覚悟を決め食べ続けました。

しかし、残った片割れを一口かじった少年は言いました。
「これ腐ってるし!」と。そして、その実を投げ捨てました。
そして彼は、「何できづかないんだよ」みたいなことを言って、
僕の持っていた実も投げ捨てました…
唯々、僕は笑うしかありませんでした。

ただ苦い経験もありますが、食べ物への僕の信条は
間違ってないと思います。スリランカでおしくないフルーツや、
さらには茶色く濁った水を拒まずにいただき続けたことは
滞在先の人々との距離を縮めることになったのは事実。
やはり一緒の食べ物を共に食すということは、
一つの重要な行為なようです。

そして、このスリランカでの経験によって、とりあえず
僕はどこにいっても食べ物には困らないんじゃないか、
そんな自信を覚えました。

この記事を書いている今は毎日おいしいインド料理を
食べ幸せを感じています。

2010/12/05

わかちあい

11月上旬の2週間。「いつか行く!」という友人との約束を
果たすためだけに訪れたスリランカ。

終わってみると期待していた以上に、素敵な国だった。
何よりも素晴らしかったのが、人々の温かさ。


友人の家族をはじめ、計4つの家族が笑顔と甘いミルクティーで
僕をもてなしてくれ、泊めてくれた。他での出会いにも恵まれ、
バスでの移動中も退屈はしなかった。

自分も感じたし、現地で会った青年海外協力隊の人も語っていたけど、
スリランカは昔の日本ようだった。人々の容姿も街並みも違うけど、
不思議とスリランカにいると、佐賀と瀬戸内海の島にあった祖父母の
家を訪れた時の懐かしさを感じた。

共有の文化がこの国には今でも強く根付いている。
調味料やフルーツ、野菜などが足りなくなったら、
お隣を訪ねていく。どこか遠出したらお土産を買い、
ご近所におすそ分けをする。わかちあいを大切にしていた。
お寺の日曜学校
日曜学校の子どもたちの遠足に飛び入り参加した際のこと。
友人から全員分のお菓子を買うようにと言われていた。
とりあえず大きな袋に入った大量のクッキーを持って行くことに。
外国人だからそうしないといけないのかと考えていた僕は驚いた。
バスが出発するなり、前から後ろから、子どもたちも大人たちも
自分が持ってきた食べ物を配って回りはじめた。誰しもが、
自分一人で食べるのではなく、わかちあうことになっていた。

スリランカは今僕がいるインドに比べたら物もないし、
インフラも豊かではないけど、わかちあいという文化を
基盤とした人々のつながりという大きな財産が
この国はある気がした。感動。

ただ友人によると、コロンボなどの都市部ではその文化も
崩れ始めているそうだ。残念ながら、この国でも経済の
発展による都市化と人々のつながりは反比例するようだ。複雑。

2010/12/04

“窃盗”先生

10月の後半。マレーシアのペナン島ジョージタウン。

綺麗なモスク
この街へ来て2日目の晩、リトルインディアを歩いていた。
この島の雰囲気に気持ちが揚々とする自分。
世界遺産ジョージタウンの古い街並みの美しさ。
中国・インド・イスラムという異なる文化が
小さな街に混在するおもしろさ。安くておいしい料理。
この街は僕を魅了する要素を存分に含んでいた。

すると突然、カップルが僕に話しかけてきた。
彼らはサウジアラビア人だと名乗り、近日中に・・・・・

今、振り返ると明らかに馬鹿げた話なので省きます。

結果的に僕は「お前ら怪しすぎる」と言い残し、
彼らから離れた。しかし、すでに時遅し、僕の財布からは
日本円で6000円ほどのマレーシア通貨がなくなっていた。
警察に行ってみても、「それはお前の不注意だ、
どうしようもない」と冷たくあしらわれるだけ。

素直に反省。意気揚々とするあまり、隙をつくり
すぎていたからこそ、彼らのような人間を引き寄せて
しまったのだろう。油断大敵。

今はただ彼らが僕のお金を有効活用してくれたことを
願うしかない。
首都にある元世界一高いペドロタワー

2010/12/03

頭をはたかれて気づいたこと

3週目。前週と同じく習熟コース。今回はクラスメートとして
一人のドイツ人女性。普段はスポーツインストラクター
をしているとのこと。

それまでの二週間を終え、僕の中で課題として感じていたのが
集中力。タイマッサージを全身に施すとなると、一時間半は
かかります。その過程で最後まで集中力を保つことができず、
僕は途中で意識が朦朧としたりもしていました。
大きな課題だと気づいてはいました。

そして、その課題は事件を引き起こしたのです。
巨大な寝仏
ドイツ人女性が来た一日目。僕は彼女にマッサージを
することに。その時にはすでに今までの成果もあり
大分納得のいく押しができるようになっていました。
しかし後半にさしかかり、例の通り集中力が切れ、
少しボーっとしながら施術を続けていました。
そして彼女に対して、押してはならない場所を押すという
禁則事項をしてしまったのです。
怒った彼女は持っていたマッサージの手引きで、
僕の頭はたき、「もういい!」といって、
それ以上、僕の施術を受けようとはしませんでした。

幸い、彼女の怒り以外は何も引き起こさなかったのですが、
一歩間違えれば彼女の体を傷つけることになりかねなかった
自分の過ち。マッサージという人の身体を触る
センシティブな行為で、気を抜くという自分の甘さ。
その晩、僕は深く反省をしていました。
薬草を使った風邪の治療
翌日、そのことを彼女に詫び、再度マッサージを
させてもらうことに。だいぶ意識を高めていたので、
その回は最後まで集中力を保った状態で施術を
やり遂げることができました。そして不思議と、
それ以後の回も自然と集中力を切らさなくなっていました。

彼女への失敗から学んだこと。
今、目の前にあるものへ意識を集中させるということ。

思い返せばそれができずにマッサージだけではなく
自分の多くの苦い経験を引き起こしていました。
目の前にあるものへ集中すべきところで、キャパを超え
他の活動へ参加し意識を拡散、そして最悪どちらも共倒れ
といったことが度々あったのです。今後はその失敗を
繰り返さないよう、彼女から教えてもらったことを
深く刻みつけます。

実りある三週間になりました。一人前になるまで
5年はかかるタイマッサージ。

僕のレベルはかなりのアマチュアですが、
気軽に声をかけてください。

ではでは。

2010/12/02

世界一気持ちいい?タイマッサージ

誰が言ったのかはわかりませんし、信憑性があるのか
どうかさだかではありません。

「タイ古式マッサージは世界で一番気持ちいいマッサージ」
らしいです。

そんなタイマッサージを僕が修行することになるとは
我ながら思ってもみませんでした。

まず修行に至る経緯を説明すると、ロッククライミングに
より疲れ果て、ボロボロになった身体。その晩、
初めて施術してもらったタイマッサージに感銘を受ける。
体も心もすっきり。この手でこの感動を人に
与えることができたら、どんなに幸せなことかと思いました。
そして、首都バンコクにあるタイマッサージの
総本山ワットポーというお寺に付属するマッサージスクールを
発見、入学を決意。ラオスをしばらく訪れた後に、
修行開始。そして、当初一週間の予定だったものが、
タイマッサージの魅力にはまり、3週間修行することに。

ワットポー
今回と次回はそのことを記します。

一週目。基礎コース。まずはタイマッサージの基本を覚える
外国人向けのコース。クラスメートはフランス人青年、
フィリピン人女性、日本人女性二人、日本人青年一人。
素敵なメンバーでした。
(途中で二人の男性は脱落することに…)

コース内容としては毎朝の軽いお祈りに始まり、夕方まで
講師の指導のもと、マッサージをクラスメート同士で
施術し合うというもの。限られた時間の中で、
タイマッサージの全過程を覚えなければいけない
というプレッシャー、そして力強く押し続けるために
おこる親指痛。入学前に想像していたよりも
僕にとっては厳しいものでした。

コース最終日には試験があり、実技と口頭試験。
かなりミスを連発しましたが、いちおう合格。
ただ全然、自分の押しに納得がいかなかったので、
違うコースを次週受講することを決意。

宿泊先のカオサンロード

二週目。習熟コース。クラスメートなし。
事前に聞かされていた内容は、講師の監視のもとの、
一般人ボランティア15人に対して施術していくというもの。
何故か値段は基礎コースの三分の一以下。

しかし蓋を開けてみると、少し違いました。被術者は
一般人ボランティアではなく、なぜかプロの
マッサージ師の方々。ただし彼らはたまに来る程度。
つまり朝から夕方まで多くの時間を担当の講師と二人で
過ごすことに。基礎コースと違いマンツーマン形式で、
押す角度や力の入れ具合など指導が細かい分、
習う方としてはどんどんと納得のいく押しが
できるようになっていきました。

おもしろかったのが、指導方法。英語をしゃべることが
できない担当の講師、タイ語に明るくない自分。
つまり、軽い挨拶などでしか言葉を交わす手段がなく、
指導は全て身体を使ったもの。押して、押されるの繰り返し。
言葉がわからずとも、距離が近づいていった気がします。
お互い多少のストレスもありましたが、非言語
コミュニケーションだけで一週間乗り切るというのは、
貴重な体験になりました。 

途中インフルエンザで寝込んだこともあり、
再度、同じコースを受講することを決意。

続きは次回の記事で。
大河メコンに沈む夕日(手前がラオス。向こう岸がタイ)

2010/12/01

ある日の崖登り

9月の下旬。タイのチェンマイ。初めてのロッククライミング。
昔、友人からその魅力を聞かされて以来、ずっと挑戦してみたかった。
漸く、その機会がやってきた。 


その日、幸運にも僕一人に対し二人のインストラクターが
付くことになった。彼らがお手本として登るのを見ながら、
僕の手は震えていた。わずかな岩の起伏を見つけ、
それを頼りに、登っていく。何とも難しいそうに見えた。
そして、体を支えるための一本の縄と岩に打ちつけられた釘が
何とも頼りなさそうだった。

あっという間に自分が実際に登る番がやってきた。
いざ登りはじめると、すでに感じていた不安は恐怖となった。
上へ行くための岩の起伏や狭間、なかなか見つからない。
その間にもどんどんと力が入らなくなる腕。そして下を見れば、
すでにかなりの高さ。もし縄が切れたら死ぬんじゃないか
というリアルさ。その恐怖を乗り越えるために、
とにかく上を目指した。夢中になっていた。


なんとか目標点に到達。その時感じた達成感は、
とてつもなかった。下をみれば、自分がスタートした場所は
小さく見え、限界を出した手のひらはプルプルと震えていた。
素直に嬉しかった。

下に降りた後は、インストラクターにその感動を伝え。もう2回、
違う岩にチャレンジした。僕はすごく興奮していた。
自分の体だけを頼りに、自然に挑むことは、爽快だった。

その日の帰りの移動中、自分が登った崖は初心者用のレベルの
低いものであり、レベルの高いものを登った時の達成感は
もっと深いものだということを話してくれた。

そして僕はそのことを聞いて、また挑戦することを決めた。


友人がおもしろさをかったてくれたように、
僕もまた違う友人に勧めみようと思う。

みなさん、ロッククライミングはかなりありですよ!